大阪新四十八願所阿弥陀巡礼
阿弥陀仏について説かれた『無量寿経』には、阿弥陀仏が全ての者を苦しみから救う為に四十八の本願を起こし、全て成就して仏となられた事が説かれています。
「四十八願所阿弥陀巡礼」とは、四十八ヶ寺に、四十八願の一願を配して巡拝地とし、各寺院の阿弥陀仏をお参りする巡礼です。
江戸時代、大阪の浄土宗寺院から四十八ヶ寺選び、四十八願の一願とその内容を詠った御詠歌を配して「大阪四十八願所阿弥陀巡礼」が行われていました。 しかし、時代とともに廃れ、長らく途絶えていました。
平成23年(2011)宗祖法然上人八百年大遠忌を記念し、「大阪新四十八願所阿弥陀巡礼」として再興しました。
蟠龍寺は第3番札所で、四十八願の第三願「悉皆金色願」(極楽浄土に往生した者は体が金色に輝いているようにしたい)が配されています。
御詠歌:草も木も みな山吹の 花の色に 照らすや法(のり)の 光なるらん
訳:草も木も みんな山吹の花の様な金色に照らす事よ。阿弥陀仏の光明は。
大阪新四十八願所阿弥陀巡礼 公式ホームページ「四十八の阿弥陀様と出会える巡礼にあなたも参加してみませんか。」
大阪三十三ヶ所観音巡り
黒部市立図書館蔵
元禄16年(1703)刊行
『曽根崎心中』初版本
南無観世音菩薩と彫刻された供養碑
江戸時代、大阪の三十三ヶ所の観音菩薩を巡礼すれば、西国三十三ヶ所を巡礼するのと同じ功徳があるという、「大阪三十三所観音巡り」が行われていました。
蟠龍寺は創建時、長福寺という名前であり、観音堂に行基菩薩作の十一面観音菩薩像を安置していた事から、「大阪三十三ヶ所観音巡り」第2番札所でした。
元禄16年(1703)に初演された近松門左衛門作『曽根崎心中』冒頭部に、遊女お初が「大阪三十三ヶ所観音巡り」をする場面が描かれるが、その中で「白む夜明けの。鳥も二番に長福寺」(辺りが白んできて、夜明けを告げる鳥の鳴き声が聞こえる頃、第2番札所長福寺に着いた)と、第2番札所長福寺として名前が挙げられています。
昭和9年(1934)梅原忠治郎氏が「大阪三十三ヶ所観音巡り」を行い、巡礼した寺院について記録した『大阪観音霊場三十三ヶ所巡り』には、「観音堂、本尊十一面大悲尊は、行基僧正の彫刻なり」との記述があります。
昭和20年(1945)空襲による類焼を防ぐ為、本堂など全ての伽藍の取り壊しを余儀なくされ、観音堂も取り壊されました。
現在、観音霊場としての形跡は、観音堂前に建てられていた「南無観世音菩薩」と彫刻されている供養碑が、墓地内に残るのみです。
黒部市立図書館蔵
元禄16年(1703)刊行
『曽根崎心中』初版本
南無観世音菩薩と彫刻された供養碑
圓光大師二十五所廻
江戸時代、大阪では阿弥陀仏や観音菩薩をめぐる巡礼が行われていました。
宝暦年間(1751-1763)、浄土宗の宗祖である法然上人(1133-1212)をお慕いする人々は、大阪に法然上人の巡礼が無い事に物足りなさを感じ、大阪の浄土宗寺院から二十五ヶ寺選んで札所とし、各寺院の法然上人の御影をお参りする「圓光大師二十五ヶ所廻」という巡礼を始めました。
現在、浄士宗では法然上人の御誕生や御往生の地を巡る「法然上人二十五霊場巡り」が行われていますが、その創設と発展に大阪の法然上人をお慕いする人々が大きく貢献しました。
蟠龍寺は「圓光大師二十五所廻」第三番札所でしたが、残念ながら「圓光大師二十五所廻」の風習は現在残っていません。
御詠歌: 三悪の 道はのがれて 蟠龍寺 仏をまもる 名こそ嬉しき
訳:地獄、餓鬼、畜生という三つの苦しみの世界から逃れ、阿弥陀様がこの世から後の世の極楽浄土まで護って下さるお念仏をお称えするのは有難くて嬉しい。